孤独な瞑想観
王子の立場を捨て、菩提樹の下での瞑想の末に悟りを開いた仏陀。山中に籠って瞑想に耽り、「神は死んだ」と悟ったツァラトゥストラ。彼らはいずれも、人間社会とのつながりを断ち切ることで、悟りを開いた。瞑想とはいわば、自らを隔絶された状況に置くことで、自身の内面と対峙する孤独な行だと言える。
瞑想から始まり、ピラミッドパワー、SMC、アセンションと、様々な分野を辿ることになる、日本の精神世界の先駆者・山田孝男。彼の仕事は、一見すると節操がない。しかし、先に述べた孤独な瞑想観に関し、彼がある気づきを得た時期、具体的に言えば、1974年の彼に迫ると、このバラバラな遍歴にも一本の筋が通っていることが分かる。
さて、本稿の目的は、山田孝男の思想的転回をこの1974年を軸に考えることで、彼の意識探究がどのように展開されていったかを辿ることにある。
しかし、大前提として、彼はどうして精神世界に興味を持ったのか。そこを知るために、まずはその道のりを辿ることにしよう。
喪失体験から精神世界へ
最初のきっかけは高校二年の冬のことだった。友達と雪の中、相撲をとって遊んでいた山田は、股関節をねじってしまう。その場はそれだけで済んだたものの、放課後トイレで用を足そうとしたとき、いきなり痛み出し、血尿に見舞われる。
生まれつき身体が弱かったという山田。この件でも、細菌性なのか相撲の際の事故なのか、原因が不明瞭なまま二ヶ月近く休学することになるのだが、大学病院では検査ばかりで一向に良くならない。そんな折、親戚の紹介で移った病院で、漢方の知識のある担当医に出会う。
山田は科学少年であったが、そこで受けた民間療法によって回復したことで、現代医学への信頼が崩れ落ちる。科学への夢が打ち破られ、生きる目標を喪失。さらに大病を患ったことで、死への恐怖をも抱えることになった山田は、死の問題について考えるため、宗教書や哲学書を読み耽るようになる。
そして、高校卒業後は、世界スプド同胞会に入会。これまでは自己流の瞑想だったが、そこでラティハンという霊的修行を受ける。
1966年、スプドの友人を通じて、かつて日本にスプドを紹介し、エドガー・ケイシーの翻訳家でもある十菱麟から『塔』という同人誌を発行しないかとの誘いを受ける。このようないきさつから雑誌の編集と発行を始めることに。この雑誌は四号まで発行された。
この四号のために十菱麟が山田に宛てて送ってきた超越瞑想の紹介記事。そこには、創始者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギの来日講演、マハリシの高弟のブラーマチャリ・デベンドラが来日する旨について書かれていた。
雑誌の発行前に来日したデベンドラから、東京で超越瞑想のイニシエーションを受け、何日間に渡り彼と行動を共にするようになった山田は、そうこうするうちに、インドに来るよう誘われる。この頃、山田は東北大学を卒業して、仙台の近くの小さな無線学校で教職についていたが、一年四ヶ月で辞めて、インドへと旅立つ。
インドではスワリ・ヨーガ・シュワラナンダという八十歳代のラージャ・ヨーガの大成者が設立したヨーガ・ニケータンという道場へ入る。
そこでの修行は大部分を個人に委ねるものだった。実際に一日のスケジュールを見てみよう。まず早朝の四時に起床し、瞑想のためにホールへ集まる。十五分の講話と一時間の瞑想をして自室へ戻る。七時頃再びホールへ。ヨーガのアーサナ(体位)とプラーナーヤーマ(呼吸法)の練習を四十分。夕方までは自由時間で、五時からホールで一時間の瞑想。その後夕食をとり、自室で読書や瞑想。十時就寝。日課は強制ではなく、休むのも比較的自由。みんなで修行をするというより各々で瞑想に励むという感じだ。
ピラミッド・パワー、SMC、そしてアセンション
1970年、帰国した山田は、ラージャ・ヨーガと占星術を基礎に瞑想の仕方を教えていたが、興味は次第にピラミッド・パワーの方へと移っていく。その理由について、彼はこう述べている。
ピラミッドというのは意識を変えるものだと思った。なぜかというと、科学的な常識からは、こういうパワーが集まるものは考えられないんですね。意識を変えないと認めることができないものなんです。これは意識を変える道具になるというので興味をもったんです
「瞑想指導家 山田孝男インタビュー」『FILAS 6号』5頁
瞑想は意識を変えることに繋がる。瞑想の最終到達点である悟り自体が意識改革であることからもそれは明らかだろう。山田の重要な仕事の一つである、ヒランヤやパイレイコファーなど、ピラミッド・パワーをテクノロジー化せんとする試みも、瞑想では個人の世界だった意識の変革を外部へと働きかけようとするものだったと言える。
瞑想に耽って幸福感を得ても、戻ってくれば現実が待つ。最終的な悟りに至るには孤独になるしかない。そうしたジレンマから、ヨーガ行者の消極的な悟りの方法は時代にそぐわないんじゃないの?という気づきを得た山田が、個人だけでの瞑想はダメだと思い始めたのが、1974年のことだった。当時のピラミッド・パワーへの興味も、後の展開を見れば、こうした思考から来たものだったと言えよう。
また、SMC(シルバ・マインド・コントロール)との出会いもちょうどこの頃だった。ビル・佐々木という男に頼まれ、二ヶ月ほど講師を務めたことをきっかけに、山田はSMCをテクニックの一つとして、彼の瞑想の中へと組み込んでいく。
SMCとは簡単に言えば、宗教性のない瞑想(今で言うマインドフルネス)のようなものだが、こうした集団での講習のようなものに携わるようになったのも、開かれた瞑想を求めた結果だったのだろう。
こうした流れを見るに、山田がSMCやラジオニクスに傾倒していった背景には、工学的な分野と接合する形で瞑想の民主化を試みる意図があったのではないか。
世の中は集合意識のカルマに従って動いていくのだから、今を生きればいい。個々人が幸せになることが世界が幸せになることだ。そう唱えた晩年のアセンション論もまた、こうした技術を使って、最終的に至るべき場所はどこなのかを、原点に立ち返りながら考えていた。
青年期のアイデンティティ・クライシスから始まった、山田の意識探究の旅は、かつてラジオを組み立てていた科学少年の心のまま、現実に揉まれ、高次の意識≒世界を開く方向へと進んでいった。一度は科学の夢を失った山田だが、彼は意識探究という形で、期せずして、失ったものを取り戻したのかもしれない。
参考文献
- 山田孝男(1990)『瞑想法で心を強くする 願望を実現するマインド・コントロールの方法』(日本実業出版社)
- 山田孝男(1995)『マジカル・チャイルドの記憶 意識探究の旅』(金花舎)
- 「瞑想指導家 山田孝男インタビュー」『FILAS 6号』1991年5月、フィラ・プロジェクツ
- 「瞑想家山田孝男の遺産 アセンションと悟り」『スターピープル 新しい時代の意識を開くスピリチュアル・マガジン Vol.12』2004年3月、ナチュラルスピリット